松本猛(たけし) 公式サイト / プロフィール

プロフィール

951年6月11日生後54日

(1) 1951年6月11日/(母)いわさきちひろ、(父)善明、猛(生後54日)

エリック・カール来館

(2) エリック・カール絵本美術館(アメリカ)名誉理事、来館

「母ちひろのぬくもり」松本猛(講談社)

(3) 「母ちひろのぬくもり」松本猛(講談社)

1954年秋/アトリエにて、ちひろ、猛

(4) 1954年秋/アトリエにて、ちひろ、猛

1955年4月/猛、満4才-アトリエにて

(5) 1955年4月/猛、満4才-アトリエにて

1958年/庭にてちひろ、猛、善明

(6) 1958年/庭にてちひろ、猛、善明

「戦火のなかの子どもたち」物語(岩崎書店)

(7) 「戦火のなかの子どもたち」物語(岩崎書店)

ちひろ美術館・東京

(8) ちひろ美術館・東京

安曇野ちひろ美術館

(9) 安曇野ちひろ美術館

エッセイ集「安曇野ふわりふわり」松本猛(信濃毎日新聞社)

(10) エッセイ集「安曇野ふわりふわり」松本猛(信濃毎日新聞社)

長野県信濃美術館

(11) 長野県信濃美術館

東山魁夷館

(12) 東山魁夷館

2005年/アナン国連事務総長に作品の解説をする

(13) 2005年/アナン国連事務総長に作品の解説をする

松本猛 まつもと・たけし

1951年生まれ。美術・絵本評論家、作家、横浜美術大学客員教授、ちひろ美術館常任顧問、美術評論家連盟会員、日本ペンクラブ会員。1977年にちひろ美術館・東京、97年に安曇野ちひろ美術館を設立。同館館長、長野県信濃美術館・東山魁夷館(現・長野県立美術館)館長、絵本学会会長を歴任。

著書『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』『母ちひろのぬくもり』(講談社)、『ちひろ美術館の窓から』(かもがわ出版)、『「戦火のなかの子どもたち」物語』(岩崎書店)、『安曇野ちひろ美術館をつくったわけ』(新日本出版社)、『東山魁夷と旅するドイツ・オーストリア』(日経新聞出版社)、絵本に『ふくしまからきた子』『ふくしまからきた子 そつぎょう』(絵・松本春野 岩崎書店)、『白い馬』(絵・東山魁夷 講談社)、『りんご畑の12ヶ月』(絵・中武秀光 講談社)『海底電車』(絵・松森清昭 童心社)など。

◎生い立ちの記

1951年

4月18日、東京広尾の日赤病院で誕生。
父、松本善明(http://zenmei.cocolog-nifty.com/blog/)、母、いわさきちひろ(戸籍上は松本知弘。岩崎は旧姓)当時、父母は神田のブリキ屋の2階の6畳一間で生活していた。父は司法試験の受験勉強中で、生活は駆け出しの画家だった母の絵筆一本にかかっていた。誕生後2ヶ月ほどは床の間に寝かされていたが、母は仕事と育児の両立が困難になり、長野県北安曇郡松川村(安曇野ちひろ美術館所在地)に住んでいた祖父母の元に預けられる。

祖父、岩崎正勝は旧南安曇郡梓川村出身。若いころから文学、美術に親しみ、小説や俳句を文芸誌に投稿していた。一説によると後に若山牧水の妻となる歌人、太田喜志子を牧水と争い、敗れたという。もし祖父が勝っていればぼくはこの世に登場しなかった。戦争中は陸軍の勅任建築技師。戦後、松川村で開拓農民として生きる道を選んだ。祖母、岩崎文江は松本市新橋出身。長野県立蟻ヶ崎高校の前身、松本高等女学校を卒業し、当時、東京女子高等師範学校とともに女子教育の最高峰だった奈良女子高等師範学校の第一回生となり、女学校の教師となる。祖母が語ってくれたところによると白馬岳に登頂した最初の女性だそうだ。戦後は蟻ヶ崎高校の同窓会長を長く務めるかたわら、同窓会館兼蟻ヶ崎学園の建設に尽力し、園長でもあった。
もの心つくころから、母、ちひろのアトリエはぼくの遊び場であり(4)母が描いた油絵の上に絵の具を塗って遊んでいた(5)。今思うといわさきちひろの作品をずいぶんつぶしたことになり残念だ。

1957年

学芸大学付属大泉小学校に入学(6)。体育だけは誰にも負けなかった。

1963年

学芸大学付属小金井中学校に入学。最初の英語の授業で先生にたたかれ、絶対に英語は勉強しまいと心に決める。後になって後悔したが、最初のつまずきが高校受験、大学受験にまで影響を及ぼすことになった。野球部に入り、キャッチャーで3番を打つ。中学時代は野球と女の子だけの人生だった。

1966年

東京都立大泉高等学校に入学。入学前から野球部の練習に参加し、一年からレギュラーを保証するといわれたが、入学後、美しい演劇部の女性に誘われ、単純かつ不純な動機で演劇部に入る。シナリオを書き、演出をする一方、応援団長を勤め、甲子園を目指す野球部が負けるまで、応援団を率いて声を張り上げた。学生紛争が激化する中で、卒業式準備委員長に選ばれ、大泉高校はじまって以来、首席ではない劣等生が答辞を読むことになった。当然のことながら、受けた大学はすべて落ちる。

1972年

2年の浪人を経て、東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。芸大の合格発表の前に早稲田大学に受かる。そのときの母の安堵の顔を見た瞬間、苦労をかけたと涙が流れた。芸大では再び体育会系野球部に入りキャッチャーでキャプテンを務める。ピンクのユニフォームを新調したが、連敗に次ぐ連敗の軟弱野球部だった。同時期に、美術学部自治会委員長に選ばれる。自治会は学生の利益代表だという信念から、政治課題には余り熱心ではなく、運動部の部長たちの力を借りながらダンスパーティー等を自治会主催でやるなど、遊ぶことばかり考えていた。もっとも学生食堂値上げなどに対しては粘り強く交渉を重ね、一定の成果を挙げた。

このころ、母とともにベトナム戦争への抗議の思いを込めた絵本『戦火のなかの子どもたち』を制作。絵本作りに夢中になる。この絵本制作の過程については『「戦火のなかの子どもたち」物語(7)』(岩崎書店)に詳しく書いた。母と次の絵本を作ろうと話していたころ、母が肝臓ガンであることが分かる。母が亡くなる直前、音楽学部楽理科在籍中だった進藤由理子と学生結婚。3女1男をもうけるが、1998年離婚。(3女、松本春野は絵本画家・イラストレーター。)

1974年

母いわさきちひろが亡くなると、卒論のテーマを現代絵本に変更。指導教官がいないまま、論文を書く。卒業後、卒論が雑誌「月刊絵本」に連載され、岩崎書店より『絵本論』というタイトルで出版される。同時に、ちひろの絵を見たいという人々の要望が寄せられる中で、家族と相談し美術館建設を決意。

ちひろ没後3年目の1977年、自宅を半分壊し、わずか180平方メートルという住宅規模の美術館、いわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)を設立(8)。「ブーフーウー」などで知られる劇作家で美術評論家でもあり、後に芸術院会員となる飯沢匡氏を館長に迎え、26歳で副館長に就任する。飯沢匡館長に美術だけでなく、ものの考え方、文章など厳しく指導を受ける。

スポンサーも資産もない財団法人の美術館運営では、入館料以外には、いわさきちひろの著作権だけが頼りだった。ちひろの没後、10年余りでおよそ100冊のちひろ関係の本を作り、その印税で運営資金を捻出する。1981年、83年に増改築を行う。

1984年

海外の絵本状況を把握する必要から、ロンドンに3ヶ月の語学留学をする。3ヵ月では使える英語には程遠いことを悟り、帰国後、大嫌いな英語を勉強するが、いまだに英語コンプレックスは抜けない。

1980年代後半

この頃から、国内外の絵本原画展の審査員をするようになり、日本だけでなく世界でも絵本の原画が散逸の危機にさらされていることを知り、本格的に絵本原画コレクションを開始する。このころの、画家たちに会って作品を譲ってもらう顛末は『ちひろ美術館の絵本画家たち』に書いた。

1993年

東京のちひろ美術館を拡大するより、安曇野にもう一つ美術館を作る(9)ことを決める。日本はもとより世界の美術館を見て回り、観光地の公園型美術館の方が入館者を集めやすいことを確信したからだ。5つの市町村長に会い、オファーをもらうが、もっともすばらしい条件を出してくれたのは、観光地としては実績ゼロの松川村だった。しかし、ちひろの両親が開拓に入ったゆかりの地であり、ぼく自身にとっても、もっとも親しみのある土地で美術館を作ることを決意する。コンペで同世代の建築家、内藤廣を選ぶ。一緒にフランクロイド・ライトの建築をアメリカ西海岸からニュ―ヨークまで10日間かけて見て回り、互いの性格、考え方を知り、けんかができる関係を作る。安曇野ちひろ美術館建設の顛末は『安曇野ちひろ美術館をつくったわけ』(新日本出版社)に詳しい。

1997年

安曇野ちひろ美術館開館。初年度は30万人以上の来館者があり、ホッと胸をなでおろす。ちひろや世界の絵本画家の絵があるというだけでなく、絵を見なくても楽しめ、昼寝のできる美術館というコンセプトが多くの人に受け入れられたのだろう。

2000年

安曇野ちひろ美術館を取材に来ていた記者、藤森照喜と結婚。安曇野市穂高有明に家を建てる。子ども時代にしばしば訪れた祖父母の家からみた有明山や北アルプスの景色が忘れられず、その近くで有明山を正面に望む土地を見つけ、終の棲家を作りたいと思った。安曇野暮らしで日々感じ、考えたことはエッセイ集『安曇野ふわりふわり(10)』(信濃毎日新聞社)にまとめた。

2001年

安曇野ちひろ美術館を増築。世界31カ国、約200人の絵本画家の作品と、古代エジプトの「死者の書」や「絵巻物」から20世紀初頭までの内外の絵本の歴史に関するコレクションを展示する「世界の絵本館」をつくる。

2002年

長野県信濃美術館(11)東山魁夷館(12)館長を兼務。美術館を文化・教育施設としてだけではなく、観光資源としても位置づけ、長野県全体の美術館を活性化させる計画を立案するが、予算がつかず実現できないでいる。それでも学校教育と美術館の連携を進め、「生活の中の美術」や「子どもが楽しめる美術」などを基本方針に盛り込み、誰もが楽しめる美術館を目指している。一方、学生時代は権威を否定したくて、認めていなかった東山魁夷の作品を目の当たりにし、その価値に目覚める。

2005年

ニューヨーク国連本部で開催された東山魁夷と中国の写真家、汪蕪生の展覧会「SPIRIT OF THE EAST」に際し、キューレーターとして東山魁夷の展示をつくる。オープニングで当時のアナン国連事務総長に作品解説をする。(13)

2007年

安曇野にある重要文化財の渡来仏をテーマに、4年間の調査研究をもとに友人の菊池恩恵とともに歴史ロマン小説『失われた弥勒の手-安曇野伝説-』を出版。大和朝廷成立前、朝鮮半島や対馬や福岡を自在に行き来し、交易活動をしていた安曇族がなぜ安曇野に来たのかを推理した。

2010年

5月 安曇野ちひろ美術館と長野県信濃美術館・東山魁夷館の館長を退任する。
7月 長野県知事選に立候補するが落選。

2011年

長野県知事選を総括した『選挙カーから見た信州』(しなのき書房)を上梓。
絵本学会会長に選任される。以後2018年まで2期、8年間務める。
東日本大震災・福島原発事故を契機に、経済発展と便利さを求め続けてきた社会と人間の生き方を問い直したいと「信州自遊塾」 (jiyujuku.org)を立ち上げ、塾長となる。

2012年

福島原発事故後、福島の子どもたちの生活を中心に取材し、娘でイラストレーター、絵本画家の松本春野とともに『ふくしまからきた子』(絵・松本春野 岩崎書店)を出版。その後も、取材を続け、2015年に続編『ふくしまからきた子 そつぎょう』(同)を制作する。1冊目は避難した子の視点から作ったが、2作目は福島に残って生活する子の側から制作した。
2009年より、東山魁夷の調査研究のために度々ドイツ、オーストリアを訪れ、魁夷が、写真を自ら撮影し、それをもとに制作していたことを確信する。信濃毎日新聞に連載記事を執筆したこともあり、調査には、テレビ取材班も同行することもあった。その成果はいくつかの東山魁夷のテレビ番組制作にもつながる。京都や長野県の取材も行なったが、欧州の旅をまとめて私自身が撮影した写真と魁夷の絵を比較した『東山魁夷と旅するドイツ・オーストリア』(日本経済出版社)を出版。
また、取材旅行を通してわかった東山魁夷のモーツァルトへの思いを描いた絵本『白い馬』(講談社)を、魁夷の絵を構成して出版する。

2017年

長年のいわさきちひろ研究をまとめた評伝『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』(講談社)を上梓。

クリックしてFeedを登録サイト全体の新着情報をFeed配信中

活動情報

ブログ

QRコード/ケータイで見る

ケータイでもご覧いただけます。
左のQRコードを読み込んでください。うまく読み込めない場合は下のURLを直接入力してご覧ください。

URL → http://www.takeshi-matsumoto.jp
→

美術館サイト紹介

安曇野ちひろ美術館サイトへ
ちひろ美術館・東京サイトへ

このページのトップへ